子どものためのコルチャック先生 井上文勝著
第二次大戦下、ナチズムが猛威をふるっていた時代、孤児たちのための施設を作り、子どもの権利条約を制定。子どもの存在をしっかり受け止め、けして逃げなかったポーランド人~ヤヌシュ・コルチャック。
子どもの悲しみを尊重しなさい。たとえそれが失ったおはじきひとつであっても。また、死んだ小鳥のことであっても。
子どもをひとりの人間として尊重しなさい。子どもは「所有物」ではない。
子どもにはじぶんの教育をえらぶ権利がある。よく話を聞こう。
子どもは愛される権利を持っている。自分の子だけでなく、他人の子どもも愛しなさい。「愛」は必ずや返ってくる。
子どもがじぶんたちの裁判所を持ち、お互いに裁き裁かれるべきである。大人もここで裁かれましょう。
子どもは宝くじではない。ひとりひとりが彼自身である。
子どもがあやまちをおかす。それは、子どもがおとなよりおろかだからではなく、人間だからだ。完全な子どもなどいない。
子どもにも秘密をもつ権利がある。たいせつなじぶんだけの世界を。
子どもの持ち物やお金をたいせつに。大人にとってつまらぬものでも、持ち主にとってはたいせつな宝。
子どもは幸せになる権利を持っている。子どもの幸せなしに大人の幸せは在り得ない。
子どもは不正に抗議する権利を持っている。圧制で苦しみ、戦争で苦しむのは子どもたちだから。
子どもの権利条約とはこのように、わかりやすく「子どもに寄り添う」とはどういうことかを説いた条文であった。第二次大戦下をはるかに過ぎた今現在でも充分通じる内容である。コルチャックを、理想化し、難しく論じる気はない。誰もが、知っておかなければならないこと、そうなりたいと思えば誰でも本当の子どもにとっての「盟友」なれるのだということ、伝えたいのはただそれだけのこと。
ベル・ジャー シルビア・プラス著
正気と狂気のはざまで、主人公のエスターは、どうやって生きてゆこうとしているのか。「ベル・ジャー」とは、クッキーなんかを入れる蓋のついたガラス瓶のこと。エスターはいつも、この「ベル・ジャー」の中で生きている気がしている。自分の吐く息で、自分自身、息が詰まっていくような・・・19歳の心情。シルビア・プラスの自伝的小説、と言う風に読んでみれば、8歳の頃から詩や文章を書く才能があり、数々の賞を採っている~というドキュメンタリーの部分は書かれていないことになるが、ここに母親が期待の多くを娘に賭けてしまった、という見方は出来ないだろうか。
成績でAを採り続け、趣味らしい趣味はなく、ただひたすら「母親の期待」に応える人生を歩んできたエスターには、「自分自身」というものが形成されていなかったのだろう。
たとえば、「日常を生きる」ということを、知らない。そのことが地獄であり不幸なのだ。
夏期講座で、ある作家の指導を受けられるということで、申し込んだ彼女の作品が選考に落ちてしまう。エスターには絶対的な自信があったのにも関らず。
そして、がたがたと坂道をころがりおちてゆくのである・・・・
狂気の中に埋没してしまったかのように思われたとき、彼女は「自分らしく生きてゆく」方法の一端を手に入れる。しかし、ラストシーン近くのエスターは、やはり痛ましく感じる。
彼女は完全な自由を手にした。付きまとわれていた同性愛者のジョーンは自殺してしまい、気に入らないボーイフレンドのバデイはあきらめ顔で突き放してくる。病院からは、当分母親と暮らさないようにと通達されている・・・・そして、男性不信を乗り越える為に避妊具まで装着し、行動する。
しかし、エスターは、あまりにも傷つきすぎている。
1963年、二人の幼い子どもを残して自殺したシルビア・プラス。この小説は自殺直前に出版されている。ゲラがあがったとき、彼女は大笑いしてこの原稿を破り捨てたと言われる。
シルビア・プラスもエスターもただの一度も「自分の感情」というものを味わったことがなかったのだろうか。プラスの詩も興味深い。いつか読んでみたい。
ボブという名のストリートキャット
猫が人間を救う物語が絶対あるはずだと検索して行き当たり、読んだ本です。ストリートミュージシャン、ジェームズ・ボーエン氏が猫の友達を得て立ち直ってゆくさまを描いている。ジェームズ氏の良い所はどんな時でも、素直で正直なところ。かっこ悪いところも隠さないところ。唄も聴いてみたいな、と思います。映画化はされているようですが、CDの話は聞こえてきません。それにしても、茶トラのボブとボーエン氏のしあわせそうな姿が、ほほえましいやらうらやましいやら、です。
おとうと 幸田文著
露伴が可愛がって育てた長男が、実母との死に別れののちに入った「まま母」とうまく行かなくなってゆく。きっかけは高校進学してからの級友とのトラブルだった。きちんと経緯を聞かず、そのまま警察送りになってしまう。このあたりは、姉のげんは(作中の名前)のちにかなり不信に思っている。なぜ、親がもっと庇ってあげられなかったのか、どう考えても、碧朗は悪くないのに。げんは、幼い頃よりは、ずっと「まま母」よりの気持ちになっており、「気の毒な人だ」と感じながらも従っている。その頃には家事炊事をほとんどげんがこなしている。「まま母」は中風で、手足がうまく利かないのだが、自分のことだけは自分でしている、と言う。
着物のことなど、当時は時季に合わせて仕立てなくては成らない。それは、「母親」の仕事なのに碧朗は、そんなこともしてもらえないらしい。キリスト教の学校なので、「退学せよ」とは言わない。そのかわり自ら退学せざるをえない方向にもっていかれてしまう。そのトラブルを起こした当人の親は学校にかなりの寄付をしている家なのだ言う。
碧朗が、新しく入った高校にも行かず、乗馬だのボートだのにのめり込んでいくがそれも、ちゃんとした「のめり込み方」さえ知らない風だ・・・悪い仲間との関りを絶つことが出来ない。あまりちゃんとした「友人との関り」を知らないで育ったせいなのか。私には到底、わからない。
碧朗は、結核に罹り、療養をするも、良くなりかけた時に、また無茶をして悪くしてしまう~げんが出来うる限りの看護をしたのは言うまでもない。最期・・・「明日、夜〇〇時に、パーテイをしよう。看護婦さんもみんな呼んで。」げんは、わたし眠っていて起きられないかもしれないと言うと紐をつけておいて、僕が引っ張るから、という会話をする。
げんは、紐がひっぱられたような気がして起きる。
「間に合わない」と弟は言う。父親も「まま母」も飛んできて、最期の見取りをする。くるりと周囲を見回す瞳。そして、静かに事切れる。誰もがこんな看取りが出来るわけではないのだと言う・・・
思い切り悪態をつき、悪い気持ちを全部外に出し切ってしまうのが良いのだと言う。
考えさせられた。ここをすべて書けることがすごい。
大沼はまの日本語教室 大沼はま著
大沼はまさんに一度も会ったことはない。それなのに、やさしくそおっと諭されているような気持ちになる。人をけして「裁いてこない」人。むかしむかしに私にもこんなお母さんが居たはずだったというような匂いがする大切な本。大村さんの一族に流れる「大切なこと」、それをこの本からちょっとだけ貰ってくる・・・そうして私の血に肉に馴染んだなら、一番身近な小さな命に、こっそり伝えよう、そんな小さな決意を促す。
言葉だけというのは表面のことなのです。はまさんの伝えたいことはもっと別なところにあります。それを汲まなければ~と思うあまり、「積読」だった本を最近、ようやく読み終えました。もっと、繰り返し読みましょう。そして作文が上手になりたい。それから、心のこもった言葉を言える人間、言葉を言わないで沈黙を守れる人間にも、なってゆきたい。
・・・それはどんな「私」なのでしょう・・・・本屋さんに行って背表紙だけながめて帰ってくるお母さんが居てもいい、読みたい本があるだけでいい、と言う。そんな願いさえないお母さんの顔つきはやはりどこかが違っている、高み、深みを目指す気持ちのない顔つきになると言う。そうかもしれない。今まで、私ずっとそうでしたよ。背表紙だけ見てる、それだけで落ち着く。読みたい本、というものが探せなかったんです、そんな風に天国のはまさんにお話したくなります。
プロテスタント教会で随分むかし、ご一緒しました。もう文語訳聖書を読み上げる教会はなくなってしまいました。あれは、はまさんのこだわりだったのですね。
はまさんのご本、今日は抱きしめて眠ります。
ゾーヴァの箱舟 ミヒャエル・ゾーヴァ著
ドイツの画家ミヒャエル・ゾーヴァの画集。ゾーヴァのユーモアたっぷりの動物の絵が、楽しめます。クマを連れて歩く少女の後姿とか、スープ皿に飛び込んだ豚とか、家出するあひるなんかが描かれています。ゾーヴァはこういう絵を好んで描きます。クスッと笑えるような動物と人間の関係を描いて見せてくれます。
ステラおばさんのアメリカンカントリーのお菓子 ジョセフ・リーダンクル著
ストロベリーパイやブルーベリーマフィンなど、この料理本片手に奮闘していたことがあります。アーミッシュの人々の暮らしを写した写真も数多く見られ、ページの下のほうには、いろいろなことわざが、和訳付きで載せられています。
These are only two lasting things we give our children・・・one is roots,the other is wings.
我々が子ども達に与えることが出来る永遠のふたつのもの・・・ひとつはルーツ、ひとつは自由にはばたく翼である~他にも、「愛は家庭から始まる」や「母はいつでも一番良く知っている」「真の友は神様からの贈り物」など、手紙やちょっとしたメッセージに書き添えるのにも重宝することわざがいろいろ記してあります。