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今、ようやく向かいあえること~映画「誰も知らない」から~タテタカコ「宝石」

わたしには、奇妙な、自分でも当惑するような「記憶」がある。自分の直接の家族でも親戚でもない誰か~が、助けてくれて、子ども達だけの「絆」で生きてきた「記憶」だ。この映画に私が強く引き込まれるのは、自分自身の「生い立ち」に深く共通する何かに突き刺さってくるからだ。このことについては、もっと後でまた、まとめたいと思う。

「大人はみんな」誰も知らないと言う。確かにそれは、目の前に突きつけられている課題だろう。

しかし、もうひとつの、私個人の観点から言ってしまえば、子供たちの、真実望んでいることとは、それが親や大人たちの無言の見守りの中でしか存在し得ない、子供同士の絆なのだ。親がその役目を果たせなければ、他の誰かでも良い。そしてそれこそが、お互いから出てくる紛れもない「善意」であり、正真正銘の自分から発する「善いコミュニケーション」を探るためのアンテナなのだからそれはとても大切な体験である。そして、「ここ」から教育というものが入ってくるべきなのだ。

もしかしたら、ある意味で、幸せに育った子ども達には、それが「幸せ」だと思い込ませられている「何か」が機能しているかわりに「想像力」というものが削り取られているのかもしれない。「出会い」が制限されているために「見抜けない」何かがあるのかもしれない。それが、思春期以前に「体験させられなければ」ならない。その意味で、ぎりぎりの所で救助された、事件の渦中にあった当事者たちに、逞しく生きて行ってほしいと願ってやまない。そして、失った小さなふたつの命のために、冥福をお祈りしたい。

以前、小学校低学年時、長男がいろいろな事情で学校に行けなくなったことがある。当時、時間割が次の週のぶん、週日最後の日に、配られるため、長男の、近所に住む友人が、このプリントを家に届けに来ていた。これは、私が頼んだのでも長男が頼んだのでもなかったし、友人本人の意思でもなかった。先生に言い渡されて来るのだ。わたしがこのことを辞めて欲しいと訴えたのには、ある事情があった。自宅と、その友人の住むマンションとは、距離的にはかなり近いのだが、「通りすがり」に通過するというわけではなかった。マンションは、交通量も多く、信号機もない道路を横切った向かって右手側、道路沿いに斜めに建っており、私たち家族の住む自宅(貨し家)は左手側の少し回りこんだ住宅街に在った。

友人が安全に帰宅するためには、最初から左手側の道路に接した歩行者用の通路沿いに歩き、公園を右手に見ながらしばらく行って、そのままマンションに直行するのがふさわしかった。公園手前の信号を渡り、右手側に渡ってしまわなくては長男に届け物をすることは出来ない。

その場合、彼らはすぐそこに見える自分のマンションに帰るために、もう一度今歩いてきた道を引き返し、公園に近い信号までは、けして戻らない。その信号なら、見通しの良い十字路なのだが。

道を1度横切れば、すぐそこなのだが、大型トラックがビュンビュン走る。そこを渡るために、大型トラックのうしろにぴったり付いて走り渡る長男の友人を見たとき、背筋が寒くなった。家に時間割を届けさせられて、事故に遭ったら大変だと思った。

しかし、誰もそんなことは気にかけていない。一人不登校児がいる、ということのほうが、学校にとって、担任にとっても一大事であるらしい。そして、そういう子どもを持つ親にはそこまでの判断能力もないだろうと思われていたのだろうか。勿論、その友人のお母さんもそんなことを気にかけてもいない。一切の注意が家の長男に向けられている。学校内で、担任の圧力が我が子に飛び火しないようにと、そのことだけに気持ちが向いている。

子どもの命のほうが大切なのに。

担任の想像力もまったく欠けている。もし、そのために事故でも起ころうなら、「ほら見たことか」と言いそうである。そんなパワーゲームはお断りだった。わたしは「時間割を友達に届けさせるのは辞めて欲しい」と理由も告げずに言い張った。それくらい「ちょっと考えればわかること」なのだが。

 

やがて、その道路には信号機が付いた。友人のお母さんが「誰か子供が死んだらしいよ」とこともなげに言った。その子は、他小学校の子であったが、その日和見な言い様に、ますますわたしは「無言」で返すほか無かった・・・・長男の友人は今はもう成人して元気に過ごしている。しかし、信号機が付いたのにも関らず、兄弟(弟)がそこで事故にあって、それが元で亡くなったとあとで聞いた。

その子の住まいのこと、マンションのことをとやかく言いたい訳じゃない。ただ、普通に「心配しなくちゃならないこと」は、「心配する」、その普通のレベルに担任は立つことが出来ていなかった。また、それに追随する形で友人のお母さんもそうだった。誰のための学校なのか。一番、当たり前なこと、まっとうなことから目を逸らさせようとする力が、横行している。

そして、ようやく「誰も知らない」の映画とモチーフとなった事件とに目をそむけずに向かい合おうとしている自分がいる。