moonfishwater28’s diary

気がつくとわたしの心から音楽が奪われていた。取り返そうとするけれど、思い出すのは昔のレコードばかり・・・今はもう手元に無いレコードたちを思い出しながら記憶の隅に眠る音、内側を作る本の言葉を集めたい。

車輪の下  ヘルマン・ヘッセ著

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この本の内容を心に収めようとすれば、必然的にヘルマン・ヘッセの生涯について読んだり調べたりせずにはいられない。主人公ハンス・ギーベンラードの「救いようのなさ」というのはそれほどのものである。

わからない宗教的背景もあちこちにある。優秀な子供であるハンスは、その頃の南ドイツが皆そうであったように、「神学校」に行くのであるが、ここが、当時にとってはエリート中のエリートが来る学校なのである。ここを卒業すれば牧師として一生涯安定した生活を送ることが出来ると言う。この時点で宗教と教育と規則尽くめの寄宿舎生活と言うのは、子供の心をがんじがらめにしてしまう、という心理学者アリス・ミラー氏の指摘するところで、なんとなく想像がつく。そして、ハンスは寄宿舎でヘルマン・ハイルナーと出会うのである。詩人を夢見ているこの少年は、13歳から詩人になる願望に取り付かれていたヘッセの分身とでもいおうか。イメージとしたら萩尾望都の小鳥の巣とかトーマの心臓などを思い浮かべてしまい、俳優なら「小さな恋のメロディ」に出ていたジャック・ワイルドを少し秀才にした感じを脳裏に浮かべる。

ハンスは今こそ、絶大な期待を持ってこのヘルマン・ハイルナーとの友情を受け入れ、享受する。それはたぶん、ハンスにとってはこのヘルマンとの友情が今まで出合ったことの無い興味深いものであったからだろう。しかし、ハイルナーは喧嘩をしたり、脱走したりして、教師から白眼視される存在となる。孤立させられたハイルナーにそれでも寄り沿おうとするハンスであったが、結局のところ、ハイルナーは、放校となる。

一度の握手のみで別れ、その後一生涯、ハンスはハイルナーと関わることが無く終わってしまう。勉強も授業も手につかなくなった「抜け殻」のようなハンスはやはり学校を辞めて郷里に帰ることとなる。善良で親切な町の人々は、神経を病んだハンスを好意的に受け入れている。しかし、もはや、ハンスは彼らの世俗的な生活についていくことが出来ないのである・・・

ヘッセの家系は、代々、新教(プロテスタント)の宣教師の家系であり、祖父が特にその道で尊敬された大人物であったと言う。第一次大戦以前のことであるから、アリス・ミラーがヒットラー、ヘッセ、シルビア・プラス、などの生育歴を詳しく分析し、書物に書くそのずっとずっと以前のことである。

つまり、ヒットラーと同世代に生きたヘッセには、ドイツのけして良いとは言えない教育形態の中で成長したのである。「詩人になる」という願望はヘッセの人生を粉々にし、死の寸前にまで追い詰めてゆく。そして、自分に才能があるとも思えず、詩人を養成する学校など無かったために、「絶望的な唄」を繰り返し口ずさんで唄ったと言う。母親はこの唄を聴き、打ちひしがれて我が子が立ち直ることを願い祈り続けた、と後部に書き添えられている。

この小説のふたりの少年はそれぞれが、ヘッセ自身であろう。

その時、その人物のみが「かけがえのない友」だと思うことがある。その友は、自分に足りなかった、思い描くこともなかった新しい「生きてゆくために必要な何か」を示唆するために現れる。これが「衝撃的」であるために、弱いほうは立ち上がれなかったり、大きな打撃を受けたりするのである。

ヘッセは紆余曲折あったが立ち直り、多くの作品を残している。